湯浅手づくり醤油 角長
【湯浅手づくり醤油】
【醤油発祥】
日本が世界に誇る調味料(SOY SAUSE)のルーツは湯浅だった
現在の日本の醤油の源泉は、鎌倉時代(13世紀の中頃)紀州の禅寺「興国寺」の開祖「法燈円明国師」が、当時は南宋と呼ばれていた中国から伝えた嘗味噌(経山寺味噌、現在は金山寺味噌と呼ばれている)が、その母体とされている。
嘗味噌の中に、瓜・茄子などの野菜から塩の浸透圧によって水分が出てくる。
この水は当時の野菜の生産が6月~8月であったため、黴の発生や腐敗の元にもなり、捨てるだけであったのだが、昔ある時、その汁を利用してみると、これがなかなか美味しい。
そこで、初めからその汁を利用するつもりで造れば「新しい醤」つまり調味料が誕生すると考えたのが今様醤油の始まりだと言われている。
また、湯浅の水が醤油作りに適した水であった事も湯浅醤油発展の一因となっている。
それは、多分に伝説的な要素もあるが、湯浅が古くから開発され、中世武士団の湯浅党があり、熊野路の喉もとにあたり、港としても繁栄し法燈国師が伝 えたという経山寺味噌は、今もなお湯浅を本場として生産され、かつ湯浅醤油から下総の銚子(千葉県)、讃岐(兵庫県小豆島)醤油が発展した点や、近世の発 展状況から類推する事が出来る。
【商品としての出荷も湯浅が初。】
室町・安土桃山時代の湯浅醤油
醤油とは、醤(ひしお)を搾った汁という意味である。 ”醤”はすでに平安時代から使用されているが、どのようにして醤汁が醤油の名称に改変して使用されるようになったのかは不明である。しかし、醤油の文字が 最初に文献上にあらわれるのが「節用集」であることから醤油の名称は室町時代には使用されていたと思われ、少なくともこの時代には京洛地方では相当民間に 流布していたと考えられる。 その頃、すでに湯浅醤油は自家用以外に商品として製造されていた。 天文4年(1535)には、醸醤家「赤桐右馬太郎」が百余石の醸造をなし、漁船に託して大坂雑魚場 小松伊兵衛方に初めて出荷した。これをきっかけに、湯浅の醸醤家は競って他国に積み出すに至った。 天正19年(1591)、豊臣秀吉の関東小田原征伐に当り、湯浅の譲醤家 赤桐三郎五郎が兵糧米を献上した廉で その恩賞として大船一槽代々相伝の事が許された。 従来、多くは漁船に託して積み出していたが、初めて大船一槽を建造して醤油積み出し甲に充当する許可を得たのである。江戸時代の湯浅醤油
千戸の湯浅に醤油屋は92軒を数えた。湯浅醤油の名声が不動のものに 江戸時代に入って、湯浅醤油の名声はますます高まり、製造技術も進み、藩外販売網も拡大され 享保年間(1716~36)に湯浅組広村の濱口儀兵衛・岩崎重次郎・古田荘右衛門らは 醤油を江戸で販売する事に着目し、銚子で醸造を開始する事に至った。 湯浅醤油の領野が東国にまで拡張される結果となったのである。 このような発展の陰には、紀州藩の特別な保護があった事を見逃すことができない。 すなわち、製造者の店頭に「御仕入醤油」の標札を掛ける事を許し醤油船の帆柱に丸にキの字の旗をあげさせて御用船並みの権利を与えた。また、無利息年賦の 資金を貸し付けたほか、問屋の代金支払いに対しては、税の不納と同様の方針で取り立て、町内一同の共同責任として弁償させてほどであった。明治以後の湯浅醤油
明治維新とともに、このような藩の保護がなくなり、同業者はこの危機に処するため 製造法の改良と品質の向上に努めたが、近年、他見の大量生産による大手メーカーの進出により、その声価は漸次衰える事となった。 しかし、湯浅醤油の伝統は今もなお、昔の呼び名「湯浅たまり」の製造手法とともに紀州湯浅にささやかながら残っています。 角長では、その数少ない「湯浅たまり」という製造手法を今もなおかたくなに守り続けています。角長 湯浅手づくり醤油 濁り醤 にごりびしお【和歌山・食品】
920~2,140円(税込)
【本場・紀州湯浅醤油】生のお醤油。ほんまもんの醤油。
麹が原料を分解する際に出る原液を、手を加えないそのままの状態で詰めています。