天長島村
【長保寺とは・・・】
長保2年(1000)、一条天皇の勅願をうけて性空上人により創建されたと伝えられています。
一条天皇には定子様と彰子様のお二人の皇后がありま したが、定子皇后のお付きの女官が「枕草子」を書いた清少納言、彰子皇后のお付きの女官が「源氏物語」を書いた紫式部です。ですから、これらの文学作品は 一条天皇の長保時代の宮廷生活を題材にして描かれています。長保時代は、平安貴族社会が頂点に達した時代であるのです。また、長保寺が創建された長保2年 に定子皇后がお亡くなりになっています。長保という年号を名乗る寺の建立は、一条天皇にとって特別の意味があったに違いありません。
本堂(1311)、多宝塔(1357)、大門(1388)、鎮守堂(1295)といった主要なお堂は鎌倉時代に至り再建されたものです。長保寺は天台宗として創建されましたが、その後、法相、天台と変わり、現在あるお堂が再建されたころは真言宗のお寺でした。仁和寺から印玄という僧が来て本堂の再建を指導しています。
寛文六年(1666)に紀州徳川家初代藩主頼宣により菩提寺に定められました。
その時に、頼宣と天海僧正の約束により天台宗に改められました。江戸時代 に、本堂背後の山の斜面に広大な藩主廟所が造営されました。「周囲が山に囲まれ要害堅固である」という頼宣の言葉が残されおり、万が一の時の陣地として利用することを考えていた様です。
【長保寺の大門について】
NHKの大河ドラマ“八代将軍 吉宗”の放映で、長保寺も表舞台に躍り出ました。しかし、紀州徳川家の菩提寺という側面だけが、強く表に出ているような気がします。
長保寺は、そのように歴史の新しいお寺ではありません。ここに取りあげた大門はもとより、本堂・多宝塔というお寺にとって重要な建物が、そろって 国宝に指定されているのです。
このようなお寺は、奈良の法隆寺しかありません。
建造物からみる限り、古代寺院の代表が法隆寺であるならば、中世寺院の代表 は長保寺といえましょう。
しかも、古代の律令国家の富と権力を背景にして成立した法隆寺と異なって、地方の経済力と文化を基に造立された長保寺の持つ意義 は、非常に大きなものと言わねばならないと思います。
長保寺の大門は、南北朝時代の嘉慶2年(1388)―北朝年号、今から607年前―の建造であることが棟札(写)で明らかになっています。正面からみると、三間一戸の楼門で両側に仁王像があり、屋根は入母屋造、本瓦葺で堂々とした風格を持ち、歴史の古い長保寺にふさわしい大門であると言えましょう。
江戸時代、何回かの修理を重ねてきたようですが、整った和様を基調とした姿をよく残しています。今現在も平成23・24年と大改修の最中です。
長保寺は、境内の全域が国指定の史跡ですが、紀州徳川家の墓所の整備のみでなく、伽藍の復元整備も極めて大切です。大門の屋根の葺き替えも必要な時期に来ています。郷土の文化財の保護に心を寄せたいものです。
大門は三間一戸の楼門(ろうもん)、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。
様式と棟札(むなふだ)写しから嘉慶(かけい)2 年(1388)に建立されたことがわかります。伝統的な和様(わよう)を基本とするが、細部に禅宗様(ぜんしゅうよう)を取り入れています。
建築彫刻に斬新な意匠が用いられ、軒先の組物(くみもの)には構造的に発展した技法が見られるなど、他に先駆けた門として国宝の指定を受けています。
【長保寺・国宝大門の様式】
大門は三間一戸の楼門(ろうもん)、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺(ほんがわらぶき)の建物です。
様式と棟札(むなふだ)写しから嘉慶(かけい)2 年(1388)に建立されたことがわかります。伝統的な和様(わよう)を基本とするが、細部に禅宗様(ぜんしゅうよう)を取り入れています。
建築彫刻に斬新な意匠が用いられ、軒先の組物(くみもの)には構造的に発展した技法が見られるなど、他に先駆けた門として国宝の指定を受けています。
国宝 明治33年4月7日指定